上総国かずさのくに)” の例文
旧字:上總國
明治六年癸酉きゆう十二月一日毅堂の長男精一郎、字文豹が年十九にして上総国かずさのくに市原郡宮原村の人元吉元平もとよしげんぺいの長女とわをめとった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
海保漁村、名は元備げんびあざな純卿じゅんけい、また名は紀之きし、字は春農しゅんのうともいった。通称は章之助しょうのすけ伝経廬でんけいろの別号がある。寛政十年に上総国かずさのくに武射郡むさごおり北清水村きたしみずむらに生れた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
上総国かずさのくに勝浦一万一千石の領主、植村土佐守うえむらとさのかみは、若くて闊達かったつで、猟と女と遠乗りが何より好きという殿様でした。
上総国かずさのくに山武郡さんぶぐん小関村こぜきむらで延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。
伊能忠敬 (新字新仮名) / 石原純(著)
多紀安琢あんたくもまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元琰げんえん、号は雲従うんじゅうであった。その後を襲いだのが上総国かずさのくに夷隅郡いすみごおり総元村そうもとむらに現存している次男晴之助せいのすけさんである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
上総国かずさのくに勝浦一万一千石の領主植村土佐守、遠乗りの帰りお楽の茶店に立寄り、お菊を見初みそめて、下屋敷へ入れることになり三百両の支度金まで出しましたが、それほどの事が、いくら隠しても
玄碩のはじめさい某氏には子がなかった。後妻こうさい寿美すみ亀高村喜左衛門かめたかむらきざえもんというものの妹で、仮親かりおや上総国かずさのくに一宮いちのみやの城主加納かのう遠江守久徴ひさあきらの医官原芸庵はらうんあんである。寿美が二女を生んだ。長をかんといい、次を鉄という。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)