秀郷ひでさと)” の例文
超えて三年、貞盛秀郷ひでさと等に討たれて、東国の乱ことごとく平らいだ……これは日本歴史に詳しく載って居ることで、今更申すまでもありません
古城の真昼 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
天慶てんぎょうのむかし、この東国で平将門たいらのまさかどが乱を起した時、人のわるい藤原秀郷ひでさとは、わざと彼の人物を視てやろうと、加勢といつわって会いに行った。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上野国の御家人薗田太郎成家は秀郷ひでさと将軍九代の孫、薗田次郎成基が嫡男ちゃくなんであるが、武勇の道に携わり、射獦しゃかつを事として罪悪をほしいままにしていたが
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
関東から奥州にかけて有名であった秀郷ひでさと流の藤原氏というのは(私もその子孫たるの名誉をもっているけれども)
名字の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
貞盛はかねて糸を引きはかりごとを通じあつてゐた秀郷ひでさとと、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
その故は承平の頃俵藤太秀郷ひでさとといふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人勢多せたの橋を渡りけるに、たけ二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて
相馬将門そうままさかど威を東国に振い、藤原秀郷ひでさと朝敵誅伐ちゅうばつの計策をめぐらし、この神の加護によって将門をほろぼしたので、この地にいたり、喬々きょうきょうたる杉の森に、神像をあがまつったのだとある。
蒲生氏は藤原秀郷ひでさとの末孫で、代々近江おうみの日野を領している名門の家だったが、戦国の世になって次第に四方から圧迫され、永禄十一年ついに織田信長の軍門にくだってその旗下となった。
蒲生鶴千代 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の名を称えて、田原藤太秀郷ひでさととよばれている人ですが」
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
田原藤太が将門を訪ふたはなしは、此の前後の事であらう。秀郷ひでさと下野掾しもつけのじようで、六位に過ぎぬ。左大臣魚名うをなの後で、地方に蟠踞ばんきよして威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
秀郷ひでさとは、なお、容易に、「うん」とは、いわなかった。老獪な彼である。完全な勝算の立つまで、腰をあげるはずがない。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)