太政官だじょうかん)” の例文
一八六八年(明治元年)四月二十一日には、『政体書せいたいしょ』が、太政官だじょうかんから出された。それには、くだいて言うと、つぎのように書いてある。(註一)
「そう行けるくらいなら、大丞参議だいじょうさんぎにゃなれないまでも、太政官だじょうかんのおひげのちり取りぐらいにゃ出世していまさあね」
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もはや大勢たいせいのいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官だじょうかんからの御達おたっしや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
下宿屋から直ちに参議となって太政官だじょうかんに乗込もうというのが青年の理想であった時代であったから
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
父は内閣を「太政官だじょうかん」大臣を「きょう」と称した頃の官吏かんり一人いちにんであった。一時いちじしきりと馬術に熱心して居られたが、それも何時しか中止になって、のち四五年、ふと大弓だいきゅうを初められた。
(新字新仮名) / 永井荷風(著)
丸山外務大丞だいじょうらが見えられたが、もはや如何いかんともするあたわず、彼奴らどもは皇帝の名に於いて侵略してまいる、われわれは太政官だじょうかんの方針によって一歩々々と譲歩し退いてまいった、遠淵トウブチより
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
太政官だじょうかんからの御達おたっしや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
肥後の河上彦斎かわかみげんさいとか、土佐の岡崎剛介おかざきごうすけとか、薩摩さつまの横山正太郎などの正直者は、新政府を、第二の幕府の出現と見て、徴士ちょうしえさにも応じないので、太政官だじょうかんは、大掃除の後のあくたを焼くように
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官だじょうかんは彼を弾正台内監察だんじょうだいないかんさつに任じた。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
太政官だじょうかんの官員様は、たいがい三井の肩持ちだから」
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取りけられ、新しい時代の来たことを辺鄙へんぴな地方にまで告げるような太政官だじょうかん定三札じょうさんさつは、宿場の中央に改めて掲示されてある。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官だじょうかん中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)