典薬頭てんやくのかみ)” の例文
『医心方』は禁闕きんけつの秘本であった。それを正親町おおぎまち天皇がいだして典薬頭てんやくのかみ半井なからい通仙院つうせんいん瑞策ずいさくに賜わった。それからはよよ半井氏が護持していた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
当時は典薬頭てんやくのかみに属していたが、さきごろ若年寄の支配に変り、御薬園奉行の職制が定って、目黒の駒場に新しい薬園ができた。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「おお、御奉公に出た明くる年の春の末じゃ。関白殿のお指図で典薬頭てんやくのかみ方剤ほうざいを尽くして、いろいろにいたわって下されたが、人の命数は是非ないものでのう」
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
朝廷からは、典薬頭てんやくのかみ和気わけ、丹波の二家をさしむけられ、門前には見舞の公卿車くげぐるまもあとを絶たない。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
義庵と称して聞えた典薬頭てんやくのかみ、今も残っている門内左手ゆんでの方の柳の下なる、このあたりに珍しい掘井戸の水は自然の神薬、大概の病はこれを汲めばと謂い伝えて、折々は竹筒、瓶
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
先年宮が病気のとき召された医者典薬頭てんやくのかみ定成がいるはずである、あの者なら首を確認できようというので、使いが走ったが、ただいま病の床に伏しているのでお役には立てない
「幕府の目見医にあがるかたわら、この医術で名をあげ、やがては御番医から典薬頭てんやくのかみにものぼるつもりだった、しかし、いまの私にはそういう望みはない」
としはじめ発会式ほっかいしきも、他家にくらぶれば華やかであった。しほの母はもと京都諏訪すわ神社の禰宜ねぎ飯田氏のじょで、典薬頭てんやくのかみ某の家に仕えているうちに、その嗣子とわたくししてしほを生んだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「ご近習や典薬頭てんやくのかみから、お目ざめの都度つどには、きっと、さし上げるようにとのことで」
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
華陽は典薬頭てんやくのかみ半井景雲なからゐけいうんの門人で、蕨駅わらびえきに住んでゐた。蘭軒は「為人沈退実著、愛間好学、不敢入城都」と云つて、著す所の書を列挙してゐる。書名中に「薬方分量考」がある。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
大坂の商賈某が信濃国諏訪の神職のぢよを娶つて一女を生ませた。此女が長じて京都の典薬頭てんやくのかみ某の婢となつた。口碑には「朝廷のお薬あげ」と云ふことになつてゐる。わたくしはこれを典薬頭と解した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)