山内容堂やまのうちようどう侯は彼女に、その頃としては実に珍らしい大形の立鏡たてかがみを贈られたりした。彼女は今様男舞いまようおとこまいを呼びものにしていた。
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
慶応けいおう三年九月であったが、土佐とさ山内容堂やまのうちようどう侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その日ひる近いころであった。広巳は山内容堂やまのうちようどうの墓地のある間部まなべ山の近くを歩いていた。広巳の気もちは混沌こんとんとしていた。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川慶勝よしかつ)をはじめ、一橋慶喜ひとつばしよしのぶ松平春嶽まつだいらしゅんがく山内容堂やまのうちようどう
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院でんぼういんの庭で、土州どしゅう山内容堂やまのうちようどう公の持っていられた眼鏡めがねで、普仏戦争の五十枚続きの油画をのぞかしたのでした。
公正な論を主張した山内容堂やまのうちようどうは、懐中に短刀を握りしめた岩倉の暴論によつて、ついに圧倒されたのである。この報がつたわると、当然に、徳川方に不満は勃発した。
これは島津修理太夫しまづしゅりだゆうをはじめ、毛利長門守もうりながとのかみ細川越中守ほそかわえっちゅうのかみ浅野安芸守あさのあきのかみ松平大蔵大輔まつだいらおおくらたいふ春嶽しゅんがく)、それに山内容堂やまのうちようどうなどの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
中山忠能なかやまただよし正親町實愛おおぎまちさねなる徳大寺實則とくだいじさねのり岩倉具視いわくらともみ徳川慶勝とくがわよしかつ松平慶永まつだいらよしかげ島津義久しまづよしひさ山内容堂やまのうちようどう西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)