間人はしひと)” の例文
太子の御母間人はしひと太后が崩御になり、その明年即ち推古天皇の三十年正月二十二日に、太子が御病気になられて、食事をよろこび給わず、太子の正妃
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
右の間人まうと間男まおと間脇まわきなど呼ばれたものは、必ずしも昔の間人はしひとの後裔だという訳ではないが、ともかくも一時落伍者として無産階級に落ちた為に
間人考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
生みませる御子、馬木うまきの王、次に葛城の王、次に間人はしひと穴太部あなほべの王、次に三枝部さきくさべの穴太部の王、またの名は須賣伊呂杼すめいろど、次に長谷部はつせべ若雀わかさざきの命五柱。
この製作は、『古流記』に従えば、孝徳帝の皇后間人はしひと皇女ひめみこが帝の追善ついぜんのために企てられたものである。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
この二皇子のまん中に生まれられたあのお気の毒な間人はしひと皇女ひめみこも、兄宮によく似たやさがたの、聡明さが顔のおもてにはつきりと浮彫りになつてゐるやうなお方だつた。
春泥:『白鳳』第一部 (新字旧仮名) / 神西清(著)
間人連はしひとのむらじ、中臣間人連、丹比間人宿禰、間人穴太部はしひとのあなほべ王、間人穴太部女王、間人はしひと皇女などこれである。
賤民概説 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
遠智おちの岡ノ上に新たにおこされたミササギに、宝ノ太后おおきさきと、間人はしひと先后さきのきさきと大田ノ皇女ひめみこと、——この親子三代のなきがらを合はせ葬つた日は、夜来の雪が日ねもす野山をこめて降りしきり
春泥:『白鳳』第一部 (新字旧仮名) / 神西清(著)
これは明らかにこの下司法師が間人はしひとすなわちハシタであることを示したもので、それを「中間」と書いて音読すればすなわちチュウゲン法師となるべきものなのである。
間人考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
しかもその埿部穴穂部皇女の御名を古事記に間人穴太部はしひとのあなほべ王に作り、法王帝説に穴太部間人王と書いてあることによって、埿部はせつかべ間人はしひとと同一であるべきことは既に述べた。
間人考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
たといそれが農業の民であっても、他の部下に属して某部と呼ばれた程の徒は、天皇直隷の民でないが為に、もちろん国家の公民ではなく、やはり間人はしひと階級のものであったと解せられる。
賤民概説 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)