東市正いちのかみ)” の例文
涌谷も松山も、雅楽頭と一ノ関との姻戚いんせき関係をにらんでいた。すなわち、兵部の子の東市正いちのかみの許婚者が、雅楽頭の夫人の妹であること。
又道円を殺させた兵部が毒を盛らせたとすると、其目的はどこにあつただらうか。亀千代が死んでも、初子の生んだ亀千代の弟があるから、兵部の子東市正いちのかみ宗家そうけがせることは出来まい。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
東市正いちのかみ宗興は豊前の小倉へ預けられ、また兵部、東市正らの妻子も、百人扶持、二百人扶持を付けて預けられている、——もし兵部が陰謀の発頭人であるなら
そして、甲斐は手記を繰り、同じ年の七月二十八日、一ノ関の嗣子しし東市正いちのかみ宗興の婚礼の項を見た。
兵部は一万石あまりのところ、三万石に増され、宇田川橋の本邸のほかに、飯倉かわらけ町に中屋敷、麻布新堀に下屋敷をもらい、その子の東市正いちのかみは土器町の中屋敷へ移った。
東市正いちのかみ(兵部少輔の子)どのを六十万石の座にすえるためです」と新左衛門が云った
おれを悪人だとねらっている、原田がそう申していたし、そういう不逞ふていの徒の少なくないことは事実だ、おれには三十万石分与の機会も惜しいが、東市正いちのかみの危険をけるわけにはいかぬ
甲斐は深夜の訪問をび、そして東市正いちのかみの消息をたずねた。兵部の子、東市正宗興は、結婚してから麻布あざぶの下屋敷に住んでいた。兵部の表情が穏やかになり、すすんでわが子の近況を語った。
同じ年十二月、亀千代ぎみ元服、九日たつの刻登城。兵部さま右京さまの両後見、ならびに東市正いちのかみ(兵部の世子)さま、遠州(宇和島藩主、伊達宗利)さまお供。黒書院にて将軍家(家綱)に謁を賜う。
東市正いちのかみの奥がみごもったそうだ」