宗倫むねとも)” の例文
寺池(式部宗倫むねとも)さまの御懇望にて、地境論の実地を検分するため、二月十日、と申しますから、三日まえに仙台を出立したということです。
桃生郡西南の地を、一帯に「深谷」といって、そこに式部宗倫むねともの所領の飛地とびちがあり、伊達安芸の遠田郡と境を接していた。
涌谷わくや(伊達安芸あき)と寺池(式部宗倫むねとも)の地境論が、涌谷の譲歩によって解決したということは、こちらで聞いた。
「いろいろあった、右京(伊達宗良むねよし)どの、式部(同宗倫むねとも)どの、に入れた者もある。二人は綱宗どのの兄に当るからだが、このおれに入れた者もあった」
三男は田村家を継いで、いま右京亮宗良うきょうのすけむねよしとなのり、栗原郡岩ヶ崎、一万五千石の館主たてぬしである。五男も分家して、式部宗倫むねともといい登米とめ郡寺池、一万二千石の館主であった。
綱宗さまには岩沼の田村右京さま、寺池の式部宗倫むねともさまという、二人の兄ぎみがおられる、仮に亀千代ぎみに不慮のことがあるとしても、このお二人を措いて、東市正どのを
式部宗倫むねともは、隠居した綱宗の異母兄に当るから、「一門」であることの単純な自尊心を刺戟しげきすれば、自分の思うままに動くことを、一ノ関の兵部はよく知っている、したがって
伊東新左衛門が危篤だと聞いたとき、甲斐は的場まとばで、式部(宗倫むねとも)と弓を引いていた。
良源院へ着くと、玄関で柴田外記げきと出あった。伊達式部(宗倫むねとも)といっしょで、二人とも麻上下だった。いま帰るところらしく、住職や僧たちが出ていたし、従者たちが式台の下に控えていた。
寺池(式部宗倫むねとも)さまとの領地境の争いについて詳しく申し述べ
次に寺池(式部宗倫むねとも)のことです。