保延ほうえん)” の例文
二十五歳のとき、保延ほうえん四年、和泉前司道経いずみぜんじみちつねになかだちを頼み、藤原基俊もととしの弟子となった。基俊は康治こうじ元年に世を去ったから、足かけ五年の間であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
この怨みが積って保延ほうえん七年の二月定明は時国を夜討ちにした。その時に勢至丸は九つであった。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
おととし、保延ほうえん元年である。その父親について、かれは初めて、四国、九州へまで渡った。
不気味なお土産みやげだけに、いくたの論議が繰り返されたが、結局、保延ほうえん四年神輿入洛じゅらくの前例にならって、祇園の神社に奉置することに話が決まり、夕刻を選んで、祇園別当、澄憲ちょうけんの手で
出家は二十三歳のとき、崇徳すとく天皇の保延ほうえん六年で、真言宗しんごんしゅうである。出家後しばらく京都近くに居り、それから伊勢いせへ行ってしばらく住んだらしく、それから東海道を奥州おうしゅうまで旅した。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
さるを保延ほうえんのころ、海賊兵二十人ほどからめ捕った恩賞に、四位の左兵衛佐さひょうえのすけとなったのですら、その当時、人は過分なと沙汰してあったに、その後は、とんとん拍子に、殿上のまじわりもなり
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)