伊井蓉峰いいようほう)” の例文
当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処あたりに、伊井蓉峰いいようほうのお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波きたにわつくばがいました。
秀造さんは私の老母ははにいわせると、伊井蓉峰いいようほうの顔を、もっと優しく——優しくの意味は美男を鼻にかけない——柔和にゅうわにしたようなと言っている。
伊井蓉峰いいようほうの弟子に石井孝三郎こうさぶろうと云う女形おやまがあった。絵が好きで清方きよかたの弟子になっていた。あまり好い男と云うでもないがどことなく味のある顔をしていた。
唖娘 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
続いて錦城斎典山きんじょうさいてんざんの顔が見えたり、伊井蓉峰いいようほう福島清ふくしまきよし花柳章太郎はなやぎしょうたろうなどの姿が、幹事室の前に現れたりした。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
新俳優伊井蓉峰いいようほう小島文衛こじまふみえの一座市村座いちむらざにて近松ちかまつが『寿門松ねびきのかどまつ』を一番目に鴎外先生の詩劇『両浦島ふたりうらしま』を中幕なかまくに紅葉山人が『夏小袖なつこそで』を大喜利おおぎりに据ゑたる事あり。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
その翌年の二月、條野採菊じょうのさいぎく翁が伊井蓉峰いいようほう君に頼まれて「茲江戸子ここがえどっこ」という六幕物を書くことになった。故榎本武揚えのもとたけあき子爵の五稜郭ごりょうかく戦争を主題テーマにしたものである。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
お定さんもまた沢村伝次郎の、それから伊井蓉峰いいようほう贔屓ひいきであった。髪を結いながら、そんな話ばかりしていた。伊井の背がもう何寸か高ければ申分ないのだがというようなことを云っていた。
生い立ちの記 (新字新仮名) / 小山清(著)
一人は丁字ちょうじ屋の小照といい、一人は浜田屋のやっこだと聞いていた。小照は後に伊井蓉峰いいようほうの細君となったおていさんで、奴は川上のおさださんであった。
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
公園裏の宮戸座は明治三十年頃に新しく出来た芝居で、初は伊井蓉峰いいようほう一座が掛っていたと思う。大正の初頃には旧派に代って源之助翫五郎がんごろう鬼丸秀調しゅうちょうなどが掛っていた。
浅草むかしばなし (新字新仮名) / 永井荷風(著)
伊井蓉峰いいようほうの新派一座が中洲なかず真砂座まさござで日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父のかたきの露国将校を討ち取るという筋であったそうで
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それから次には伊井蓉峰いいようほう親父おやじさんのヘヾライさん。まるで毛唐人けとうじんのような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けたかというと、これにはなかなか由来があります。
寺内の奇人団 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
伊井蓉峰いいようほうや、河合武雄や、喜多村緑郎や、そのほかにも幾多の功労者のあることは争われない事実であるが、なんといっても川上音二郎を第一の元勲に推さなければならない。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
明治廿四年浅草公園裏の吾妻あづま座(後の宮戸座)で、伊井蓉峰いいようほうをはじめ男女合同学生演劇済美館の旗上げをした時、芳町よしちょうの芸妓米八よねはちには千歳米波ちとせべいはと名乗らせた時分だったか、もすこしあと
市川九女八 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
そうして更に彼らに対抗すべく理想的の新劇団を組織しようと考えた。その尽力と後援とによって成立したのが、済美団せいびだんという一座で、伊井蓉峰いいようほうがこの時初めて舞台の人となったのである。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
高田はそれで売出したのである。水野好美や伊井蓉峰いいようほうも加入していた。戦争の場では、実弾に擬した南京ナンキン花火をぱちぱち飛ばして、しきりに観客をおびやかしたりして、この興行は大成功であった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)