播磨国はりまのくに)” の例文
宗春むねはると改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国はりまのくにの佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
大鷹おおたかはかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国きいのくに播磨国はりまのくにへとくだって行き、そこから因幡いなば丹波たんば但馬たじまをかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江おうみから美濃みの
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
播磨国はりまのくに飾東郡しきとうごおり姫路ひめじの城主酒井雅楽頭忠実うたのかみただみつ上邸かみやしきは、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋かねべやには、いつもさむらいが二人ずつ泊ることになっていた。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それから西宮にしのみや兵庫ひょうごを経て、播磨国はりまのくにり、明石あかしから本国姫路に出て、魚町うおまちの旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
才八さいはちは永禄元年出生そろて、三歳にしてちちを失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一やごえもんかげかず名告なのり、母の族なる播磨国はりまのくにの人佐野官十郎さのかんじゅうろう方に寄居いたしおり候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)