“きたのまんどころ”の漢字の書き方と例文
語句割合
北政所100.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
秀吉は天正十八年小田原攻めの時にも書を北政所きたのまんどころに送って、淀君を陣中に招いているが、今度の出陣にも名護屋の行営こうえいへ連れて行ったのである。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
又、生捕られた女房たちは、女院、北政所きたのまんどころろう御所おんかた、大納言佐局すけのつぼね帥佐そつのすけ、治部卿局以下四十三人である。
道長には倫子と高松殿と北政所きたのまんどころが二人あるといわれたほどであったが、やはり嫡妻倫子腹の頼通よりみちの子孫から近衛このえ九条くじょうの二家が分れ、さらに五摂家に分れて今日に血を引いたが
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
御所の船には、女院、北政所きたのまんどころ、二位殿以下の女房、又宗盛親子は同じ船に乗った。一町ばかり漕ぎ出したとき、渚に現われたのが源氏の同勢七、八十騎であった。
そのことは、文禄二年八月九日、北政所きたのまんどころへ送った太閤の書簡にも
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)