銀杏いちょう)” の例文
三年も見なかった間に可成かなりな幹になった庭の銀杏いちょうへも、縁先に茂って来た満天星どうだんの葉へも、やがて東京の夏らしい雨がふりそそいだ。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
本郷の大学前の電車通りを、轟々ごうごうと音立てて電車が通った。葉の散りかかった銀杏いちょう並木の上に、天が凄まじい高さで拡がっている。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
昼から陰っていた大空は高い銀杏いちょうのこずえに真っ黒にしかかって、稲荷のほこらの灯が眠ったように薄黄色く光っているのも寂しかった。
半七捕物帳:18 槍突き (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あのわたしは浅草の、銀杏いちょう茶屋のお色でございます」
銅銭会事変 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
銀杏いちょうかやの数を隠して、相手に当てさせるにも同じ言葉を唱え、または手を組み、輪になって、中央に一人の児をしゃがませ
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ついでに柔らかい銀杏いちょうの若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に
五月の唯物観 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
浅草観音堂とその境内けいだいに立つ銀杏いちょうの老樹、上野の清水堂きよみずどうと春の桜秋の紅葉もみじの対照もまた日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。
しかしこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。銀杏いちょう黄葉こうようさみしい。ましてけるとあるからなおさみしい。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
千年の銀杏いちょうけやき、杉など欝々蒼々うつうつそうそうと茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川たまがわかわらに出た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
それをひらたい箱へ詰めてドロップスの型を押します。譬えば銀杏いちょうで横に押すと銀杏の形ちが半分出来ます。指で押せば指の形が出来ます。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
両側のその、水々しい、それ/″\の店舗のまえに植わった柳は銀杏いちょうの若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。
雷門以北 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
そして、ややしばらく、じっと耳を澄ましていたが、時折黄色い銀杏いちょうの葉が、ひさしを打ってハラハラと落ちてくるほか、物音らしい音はない。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
リーダーを持ったまま、彼は硝子窓ガラスまどの方へ注意をけていた。ひょろひょろの銀杏いちょうこずえに黄金色の葉がヒラヒラしているのだ。
秋日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
「この銀杏いちょうが秋になると黄鼈甲きべっこういろにどんより透き通って、空とすれすれなこずえに夕月が象眼したように見えることがあります」
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
秋らしい光線が、枝葉のややえかかった銀杏いちょうの街路樹のうえに降りそそぎ、円タクのげて行く軽いほこりも目につくほどだった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
寺の墓地は広くて大鳥毛みたいな形をした銀杏いちょうの大木が五、六本まっ黒にならんでいた。妹の墓は実をもったはぜの木のあいだにたてられた。
妹の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖銀杏いちょうのしたで、諏訪栄三郎のふところから財布を抜いて走った男。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
涙ぐみてたたずむ時、ふと見る銀杏いちょうの木のくらき夜の空に、おおいなる円き影して茂れる下に、女の後姿ありてわがまなこを遮りたり。
竜潭譚 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
大きい銀杏いちょうの木が五六本、その幹と幹との間にこれから織ろうとする青縞あおじまのはたをかけて、二十五六のくし巻きの細君が、しきりにそれをていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
半分開いた格子戸に手をかけたまま、派手な銀杏いちょうがえしに結った若い娘が、大きな目をして、彼の方を見つめている。
三つの挿話 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
今日もカスタニアンと云う黄いろい薔薇ばらがざくりと床の間の花瓶かびんに差されている。銀杏いちょうの葉、すこしこぼれてなつかしき、薔薇の園生そのうの霜じめりかな。
晩菊 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
明智はふと立止って、墓地の一方の隅の銀杏いちょうの木の根許を指さした。そこには木の幹の陰に大きな穴があって、その中にゴミがうずたかく積っていた。
一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
長い歴史のおかげでここでは色漆で絵を描く。好んで黒地に黄や朱で絵を描く。その絵に山水だとか桃だとか銀杏いちょうだとか伝った模様があっていたくうまい。
陸中雑記 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
しかるにあるとし八幡宮はちまんぐうがこの鶴岡つるがおか勧請かんじょうされるにつけ、その神木しんぼくとして、わしかずある銀杏いちょううちからえらされ、ここにうつえられることになったのじゃ。
しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏いちょうの樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
夜になると風が銀杏いちょうの木の葉をひらひらと落して来ました。弥勒寺みろくじの鐘が九ツを打った時分に、屏風の蔭に寝ていた机竜之助はウンと寝返りを打ちました。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
銀杏いちょう返しに結った平顔の、二十五六の女が変な顔をして出て来た。疑わしげに、女は藍子を上下に見ながら
(新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「ごく若い時には日本髷にほんがみがすきでね。それも、銀杏いちょうがえしにきれをかけたり、花櫛はなぐしがすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。」
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
村はずれの坂の降口おりくちの大きな銀杏いちょうの樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃たんぼがある。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏いちょうの並木の下へ出ると
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
色の白い愛嬌あいきょうのある円顔まるがお、髪を太輪ふとわ銀杏いちょう返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子くろじゅすと変り八反の昼夜帯、米琉よねりゅうの羽織を少し衣紋えもんはおっている。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
丘の上には高い銀杏いちょうの木がそびえ、右へだらだらにのびた崖の上には掘立小屋のような小さい家が雑然とならび、高い物干竿におしめの乾してあるのが見える。
菎蒻 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
社殿のの色と銀杏いちょうの葉の黄が、やわらかさをました日ざしのなかで、くっきりと浮きあげになっている。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
書物の文字やと一所に、どこかへ綺麗きれいに消え失せてしまって、自分は矢張り最前の銀杏いちょうの根本に、書物を持ったままぼんやりと突立っているのであった。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
祖母が千住へ行く時、弟への土産みやげのためです。木の葉の麺麭パンといって、銀杏いちょう紅葉もみじ、柿の葉などの形の乾いた麺麭に、砂糖が白く附けてあるのが弟の好物でした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
万戸は驚いて介抱したが蘇生しないので、綉褥しとねに包んで家の背後の圃中はたなかにある銀杏いちょうの樹の下へ埋めた。
愛卿伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
今日も風のないい天気である。銀杏いちょうの落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと初音町はつねちょうに出た。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
宙に泳ぐ手、銀杏いちょう返しの根はガックリ抜けて、血潮の網目を引いた拳に、黒髪がバラリと絡みます。
芳年写生帖 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
すなわち、相州そうしゅう三浦郡大津村に、信誠寺という真宗の寺院があるが、その境内に蓮如上人れんにょしょうにんの杖を地にはさまれたのが生育して、銀杏いちょうの大木となったという古木がある。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏いちょうの木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこからはばの広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。
銀河鉄道の夜 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
織物ではあるが秋草が茂っているくさむらになっている。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏いちょうの木がその上に生えている気持。風が来ると草がさわぐ。そして、御覧。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
僕は眼を大きくみはって、洗面所の窓からテニスコートの黄ばみはじめた銀杏いちょうを黙って眺めていた。
パンドラの匣 (新字新仮名) / 太宰治(著)
銀杏いちょう返しの髪はすこしみだれ、ほつれ毛が、紅潮した長顔に、しどけなくたれかかっているが、金五郎の眼をひいたのは、腕まくりした女の右腕の、美しい彫青であった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
僕達は大きな銀杏いちょうの木を目当にお寺に行った。白と茶斑の犬はジャレながらついて来た。
贋紙幣事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
境内には松杉銀杏いちょうの大樹が繁茂して余程広うございます(寳暦ほうれきの年号が彫ってあります)牝狗あまいぬ牡狗こまいぬの小さいのが左右にあり、碑が立って居て、之にたし鐵翁てつおうの句がございまして
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
すっかり黄金色こがねいろに染って、夕風が立ったら、散るさまが、さぞ綺麗きれいだろうと思われる大銀杏いちょうの下の、御水下みたらしで、うがい手水ちょうず祠前ほこらまえにぬかずいて、しばし黙祷もくとうをつづけるのだったが
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
銀杏いちょうや深山毛莨きんぽうげ、白山一華などの密布して咲きつづく処を、一足一足ためらいながら拾って、二、三十歩下りると、朝日岳山稜の雪田から滴る、凍結せんばかり冷徹な小流れが
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
それから左の方に銀杏いちょうの樹が高く見える。それがつい四五日しごんち気の付かなかった間に黄色い葉が見違えるばかりにまばらに痩せている。私達はその下にも住んでいたことがあったのだ。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
燈火ともしびわずかほたるの如く、弱き光りのもとに何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもうとお計りも大きゅうして銀杏いちょうまげ結わしてから死にたしとそでみて忍び泣く時お辰おそわれてアッと声立て
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
例の如く銀杏いちょう返しに結って、金縁眼鏡をかけ、羽織は黒縮緬の三つ紋で、お召の口綿を着ている。私は呂昇を素顔で見るのは初めてだ。なるほど老けている。四十の坂を余程越した、中婆だ。
美音会 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)