蟋蟀こおろぎ)” の例文
唯その方向を埒外らちがいに逸しないことにある。この頃、夜毎に蟋蟀こおろぎが啼いているが、耳を澄ませばその一つ一つに、いい知れぬ特色がある。
日本的童話の提唱 (新字新仮名) / 小川未明(著)
壁の中で鳴くといわれて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀こおろぎでさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていなかったが
源氏物語:04 夕顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
その晩もお三輪は旅人のような思いで、お力の敷いてくれた床にいた。浦和の方でよく耳についた蟋蟀こおろぎが、そこでもしきりに鳴いた。
食堂 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
二人がすわってる腰掛はやみに包まれていた。星は輝き、白い霧が河から立上り、蟋蟀こおろぎが墓地の木陰に鳴いていた。鐘が鳴りだした。
柿の葉は花より赤く蜜柑の熟する畠の日あたりにはどうかすると絶えがちながら今だに蟋蟀こおろぎの鳴いている事さえあるではないか。
冬日の窓 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
臆病らしい蟋蟀こおろぎの声が土台の下で途切れ途切れに啼き出して、遠い裏門の辺には、野帰りらしい百姓の、太い空咳などが聞えた。
かやの生立 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私は二匹の小さな蜘蛛と、二匹の非常に小さなワラジムシとを見つけてうれしく思ったが、殊に二匹の洞窟蟋蟀こおろぎは何よりもうれしかった。
どこでくのか、風邪を引いているような蟋蟀こおろぎの声が聞えた。いつもこの室に並べて敷く二つの蒲団を、ひとつにしたいような夜であった。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
湯原王ゆはらのおおきみ蟋蟀こおろぎの歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々しおしおとする、というのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
手許てもと火鉢ひばちせた薬罐やかんからたぎる湯気ゆげを、千れた蟋蟀こおろぎ片脚かたあしのように、ほほッつらせながら、夢中むちゅうつづけていたのは春重はるしげであった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
押えられて、手を突込つっこんだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀こおろぎのようにもがいて、頭でうすいていた。
神鷺之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その中には蟋蟀こおろぎも鳴いている。この蟋蟀という奴が私につらい思いをさせた事があるのだ。私は蟋蟀の声を聴くときっとそれを思い出すのである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
元来、よほど以前に出来た建物なので、壁は雨と埃にまみれてドス黒く汚れ、窓硝子はさんざんに砕け落ちて、螇蚸ばった蟋蟀こおろぎの住家になっていた。
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
きわ世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋蟀こおろぎの声もかすかにあわれもよおし、物凄く
がま蟋蟀こおろぎが鳴くもの憂いなかで、ときどき鬣狗ハイエナがとおい森でえている。その、森閑の夜がこの世の最後かと思うと、誰一人口をきくものもない。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
近々と鳴く蟋蟀こおろぎの声を聞きながら、しずかに腹をさする夜長人の姿を想い浮べれば、先ずこの句の趣を解し得たに近い。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
伸びる盛りの肉体だった、武蔵の弾傷たまきずがすっかりなおる頃には、又八はもうまき小屋の湿々じめじめした暗闇に、じっと蟋蟀こおろぎのような辛抱はしていられなかった。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それにつれてあとの二人は、手に持った道具を振り廻しながら、まるで蟋蟀こおろぎ海老えびのように、調子を揃えてはねまわって行った。その歌はこうであった。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
□二月十二日、家々にて浚井いどかえし女子は井の水を汲んで額を洗ふ、如此かくのごとくすれば疾病を免るゝとなり、この月や土筆つくし萌出、海棠・春菊・百合の花満開し蟋蟀こおろぎ鳴く。
山中温泉の町はずれに、蟋蟀こおろぎ橋というゆかしい名前の橋があり、その橋のたもとに増喜楼ぞうきろうという料理屋があった。
鮎の食い方 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
彼の巨大な体躯にもかかわらず、彼は蟋蟀こおろぎのように飛び、またましらのように樹上に消え失せることが出来たのだ。
蟋蟀こおろぎや、鈴虫やの見まちがいではなかった。彼は自分の耳を疑い、目を疑い、顔を近づけてしげしげとその若い女性のミニアチュアのような生物を観察した。
メリイ・クリスマス (新字新仮名) / 山川方夫(著)
床近く蟋蟀こおろぎが鳴いていた。苦痛にもだえながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調べがなんだか全身にみ入るように覚えた。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀こおろぎの声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
戯作三昧 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
時折靴のすれる音、教師達の遠慮深げに歩む音、囁く音より外に断れぎれな蟋蟀こおろぎの鳴く声がするのみである。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
女車掌が蟋蟀こおろぎのような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩ぬすびとうまやの昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。
箱根熱海バス紀行 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
鈴虫松虫蟋蟀こおろぎなどの音色ねいろを分け得ない私の耳にも、千年の昔の虫の声々が、哀れを伝えて来るのである。
軽井沢にて (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
秋の蟋蟀こおろぎの「肩させすそ刺せ、寒さが来るぞ」でも、さてはふくろう五郎助ごろすけ奉公、珠数掛鳩じゅずかけばと年寄としより来いも、それぞれにこれを聴いて特に心を動かす人があったのである。
ただときどき、蟋蟀こおろぎがもの悲しく鳴いたり、食用がえるが近くの沼で、寝ごこちが悪くて急に床のなかで寝がえりをうったかのように、咽喉のどをならしているだけだった。
画いてある白桔梗の下に、当人の知らない蟋蟀こおろぎが二ひき描き加えられてあったので、松篁はぷりぷり怒ってしまいまして、こんなものに箱書ができるかと申すのです。
迷彩 (新字新仮名) / 上村松園(著)
いっぱい飯の盛られた飯茶碗を胸の辺へかかえ上げると押入の方で蟋蟀こおろぎがりいい……と鳴き始めた。
泣虫小僧 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
蓮の花が咲いたあとには蚊帳かやを畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀こおろぎが鳴く。時雨しぐれる。木枯こがらしが吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
拂暁、午前五時頃ト思ウ、ウト/\シナガラ聞イテイルト、何処カデ蟋蟀こおろぎガピイピイト鳴イテイル。ピイピイ、ピイピイ、ト、カスカナ声デハアルガ、シキリニ聞エル。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
やみのなかにほの白く浮かんだ家のひたいは、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。蟋蟀こおろぎが鳴いていた。
ある心の風景 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
黒谷橋から断魚渓に沿うて、蟋蟀こおろぎ橋へ上った。岩を咬む急たんが、ところどころでは、淵となって静かな渦を巻いていた。そこには背の黒い小さな川魚が、静かに遊んでいた。
仙人掌の花 (新字新仮名) / 山本禾太郎(著)
そうして彼はその少女の靴へほんの少し蟋蟀こおろぎくそほどの泥がはねあがっているのを見つけた。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
それが髯を生やした蟋蟀こおろぎであろうと、若狭守であろうと、どちらにしても少しも差支がない。
艸木虫魚 (新字新仮名) / 薄田泣菫(著)
周囲から虫が集まってきていた。それで寄宿生らの間では、そのすみずみに特別なおもしろい名前をつけていた。蜘蛛くもすみ、青虫の隅、草鞋虫わらじむしの隅、蟋蟀こおろぎの隅などがあった。
田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀こおろぎが唄う秋の詩をきくともなしに耳にする候になると、少年のわが胸に、淡い望郷の念が動いてきた。
わが童心 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
秋の単衣ひとえがひどく潮垂れて、調度のないガランとした住居は、蟋蟀こおろぎ跳梁ちょうりょうに任せた姿です。
如何うだ此の光る金色を見て羨しくないかハハハ其にお前なんかは蟋蟀こおろぎほどの音も出せないじゃあないか、まあまあ俺の見事な声を聞いてから目を廻さない要心をしているが好い
一粒の粟 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
……鳴りを静めていた蟋蟀こおろぎが、ジイッジイッと、重苦しい闇の中になき始めて来た。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
で、一人ぽつねんとプラットフォームに居残って、はるかの闇に見入りながら、グーロフはまるでたったいま目が覚めたような気持で、蟋蟀こおろぎの鳴き声や電線の唸りに耳をすましていた。
近所の女の友達と一緒に蟋蟀こおろぎを取ってあるいた寂しい石垣下の広い空地あきちくさむらの香、母親の使いで草履の音を忍ばせて、恐る恐る通りぬけて行った、男の友達の頑張っている木蔭の多い
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
み切った月が、暗くにごったしょくの火に打ち勝って、座敷ざしきはいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋蟀こおろぎの声が、笛のにまじって聞こえる。甘利はまぶたが重くなった。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
百部は、はやくに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉もみじして、其がもう散りはじめた。蟋蟀こおろぎは、昼もその一面に鳴くようになった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
そのうちに蟋蟀こおろぎの声が普通よりも騒々しくなりました。池の中では蛙が鳴いてゐました。蠅はくつついて来てうるさくなりました。時々微風が、矢庭に街道を吹き立てて埃を巻きあげました。
昼間の間に部屋の中へ、こっそり忍び込んでいたのでもあろう、一匹の蟋蟀こおろぎが飛んで来た。長い触鬚しょくしゅをピラピラと揺すって、巨大なのみのような形をして燭台の脚の下にうずくまっている。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
(取り卸したる裘を振へば、蟋蟀こおろぎ、イタリアこほろぎ、甲翅虫など飛び立つ。)
また庭には蝶や、蜻蛉とんぼや、蝉や、馬追や、蟋蟀こおろぎ等がいる。蟻が長い行列を作っていることもある。小さい蟻が動いているのを見詰めていると、急に無数の蟻がぼやけ、目全体が霞んでしまう。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)