はん)” の例文
すると、菊王は、振っていた手をひっこめて、急にくるっと、人ごみを分けて、蹴上の中腹にある大きなはんの木の方へ駈けて行った。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
麦の畑をつらぬいた細い道は、向こうに見えるひょろ長いはんの並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根わらぶきやね水彩すいさい画のように見渡される。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
やはらかさに滿たされた空氣くうきさらにぶくするやうに、はんはなはひら/\とまずうごきながらすゝのやうな花粉くわふんらしてる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そのうちに、右の女ははんの木の蔭に隠れて見えなくなってしまい、自分は早くも長兵衛小屋の下にたたずんでいたと言います。
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
広いはたと畑との間を、真直に長く通っている街道である。左右にはみぞがあって、そのふちにははんの木のひょろひょろしたのが列をなしている。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
深山みやまはんの木の根方にうち倒れた、醜い空骸は、土に還ると共に、根方に寄生して、そこから穂のような花をさし出すおにくという植物になった。
富士 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
この境内に立つと、根岸田圃ねぎしたんぼから三河島村みかわしまむら、屏風を立てたような千住せんじゅはんの木林。遠くは荒川あらかわ国府台こうのだい筑波山つくばさんまでひと目で見渡すことが出来る。
平賀源内捕物帳:萩寺の女 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
其処は蛛網の大綱がくつついてゐるはんの木の直ぐ根元でした。青い豆蜋とうすみとんぼ藺草いぐさの叢の間を彼方此方と飛びまはつて、それ/″\に猟の最中でした。
惡者共は七八人裏手うらてへ廻り立はさみ前後より追迫るにぞ半四郎は彌々いよ/\絶體絶命ぜつたいぜつめいはたふちなるはんの木をヤツと聲かけ根限ねこぎになしサア來れと身構へたり之を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
江東梅園も臥龍梅ぐわりゆうばいと一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田すゐでんはんの木のあつた亀井戸かめゐどはかう云ふ梅の名所だつた為に南画なんぐわらしいおもむきを具へてゐた。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
「あツ、」とまたはげしい婦人おんなの悲鳴、此のときには、其のもがくにつれて、はんの木のこずえの絶えず動いたのさへんだので。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
散り/″\に並んだ眞青なはんの木、植ゑつけられた稚い稻田、夏の初めの野菜畠、そして折々汽車の停る小さな停車場には蛙の鳴く音など聞えてゐた。
水郷めぐり (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
耕地のまぐさはんの木の新芽などは潮煙りをしつきりなく浴びるので、葉末が赤茶けて、こてをあてたやうに縮み、捲き上つてゐる。風はなかなかやまない。
南方 (旧字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
そこには一本の大きいはんの木が立っていて、その下を細い田川が流れている。左内はその身に数カ所の傷を受けて、木の根を枕に倒れていたのである。
今夜はいつになく風が止んで、墓地と畑の境にそそり立ったはんの梢が煙のように、え渡る月をいて物すごい光が寒竹のやぶをあやしく隈どっている。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
はたけのもの、あぜに立つはんの木、かえるの声、鳥の音、いやしくも彼の郷土に存在する自然なら、一点一画の微に至る迄ことごとく其地方の特色をそなえて叙述の筆に上っている。
春の野に似てなごやかな南の岡は湖のかなたに波うち、そこにほとほとと模様をおいた灌木、はんの木の小村へかよう小路、草を負うた馬や人のとおるのもみえる。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
少しはなれて見ると密生したこずえの色が紫色にぼうとけむったように見える。畑の間を縫う小道のそばのところどころに黄ばんだはんの木のこずえも美しい。
写生紀行 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
久野らは千住の手前で二度力漕をして、それからネギ(力を入れない漕ぎ方)ではんの木林の方へ溯った。するといつの間にかあとから農科の艇も漕ぎ上って来た。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
大松明おおたいまつしばに用いるはんの木が乏しくなったので、今はハゲシバリを代用していると京都民俗志にはあるから、名は一つでも式は村毎にややちがっていると見える。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
明日息子達が川端田圃たんぼの方へ出かけるから、俺ァひとつはんの木畑の方へ、こっそり行ってやろう——。
麦の芽 (新字新仮名) / 徳永直(著)
にわかに天気が狂ったのである。太吉は外を眺めて崖端がけっぱたに立っている一本のはんの木のいただきに目を止めていた。
越後の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
右の方は崩れかかった藁葺わらぶきの農家が二、三軒あるだけで、あとは遠くまで畠や田圃たんぼが続き、処々のあぜには下枝をさすられたはんの木が、ひょろひょろと立っています。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
いずれにしても、はんの木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に荷田春満かだのあずままろが云っている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
牧場まきばの中には、美しい調子ちょうしふえのようながまのなく声が聞えていた。蟋蟀こおろぎするどふるえ声は、星のきらめきにこたえてるかのようだった。かぜしずかにはんえだをそよがしていた。
ジャン・クリストフ (新字新仮名) / ロマン・ロラン(著)
秀之進は町裏へぬけると、青々と伸びた稲田のあいだのみちを、さっさと東へあるいてゆく。田の畔にははんの木が植えてあるので、そこまではいると街道からは見えない。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
村の入口で聞きますると、それはあのえのきのある処から曲ってくと、前に大きなはんの木が有るからと教えられて、其の通り参って見ると、百姓家は土間が広くしてある
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立かぶだちはんの木まで、駄々をねて車に積んでもろうた。宰領さいりょうには、原宿住居の間よく仕事に来た善良ぜんりょうな小男の三吉と云うのを頼んだ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
抽斗は木でしきられていて、それがはんの木のたぐいであることを後に知ったが、その抽斗の中から一種特別な、しかも強烈でもなく、また不愉快でもないような匂いが発して来た。
早川から黒河内くろこうちはんの河原、それから白剥しらはぎ山と、前年の路を辿たどったときに、洪水からの荒廃は一層甚だしかった、まるで変っている、川筋はもとより、山腹の道などは、じり切って
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
花畠はなばたけむぎの畠、そらまめの花、田境たざかいはんの木をめる遠霞とおがすみ、村の小鮒こぶな逐廻おいまわしている溝川みぞかわ竹籬たけがき薮椿やぶつばきの落ちはららいでいる、小禽ことりのちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが
野道 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
野社のやしろはんの木折れて晩秋の来しと銀杏いてふの葉に吹かれ居る
舞姫 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
白銀しろがね筐柳はこやなぎ菩提樹ぼだいずや、はんや……
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
けもののやうなはんの木が腕を突き出し
定本青猫:01 定本青猫 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
通りすがりのはんの木の
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色あんしょくが多かった、かれは青田を越えて、向こうのはんの並木のあたりまで行った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
「これ見ろ作十、誰かはんの木山ん中へ、こんな掛物を置きっぱなしにして行っただあ、ことによると泥棒かも知んねえ」
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
二三株にさんかぶ比較的ひかくてきおほきなはんつてところわづか一枚いちまいいたはしなゝめけてある。おしなはしたもと一寸ちよつとどまつた。さうしてちかづいた自分じぶんいへた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そこは峠の道を横に入った崖の中腹で、甲賀の山、河内平かわちだいら、晴れた日には紀淡きたんの海も望まれよう、風に鳴る静かな古松こしょうはんの木にかこまれている。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
或日同君が江戸川べりのはんの若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。
樹木とその葉:07 野蒜の花 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
二人は更に坂下の空地へまわると、秋草の乱れている中に五、六本のはんの木が立っていた。うしろは小笠原家の下屋敷で、一方には古い寺の生垣いけがきが見えた。
半七捕物帳:58 菊人形の昔 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
やがて向うのはんの木の林から猟犬のけ下りてくるのが見え、すぐ後からお医者が自転車にのってやってくる。
石ころ路 (新字新仮名) / 田畑修一郎(著)
落葉松、白樺、厚朴、かえでなどの代わりに赤松、黒松、はんけやききりなどが幅をきかしている。
軽井沢 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
水田やはんの木のあった亀戸はこういう梅の名所だった為に南画らしい趣を具えていた。今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べている。……
本所両国 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
はんの木原で、その実をせんじて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
風は静かに、はんの木の枝をそよがしていた。河の上方の丘から、うぐいすのか弱い歌がおりてきた。
その頃周蔵のいる家の前は、往来に出るまではたけの中に細道があって、その道の両側にかしの木や、はんの木や、桜の木や、椿の木がうえられてあり、木の根には龍のひげが植られてあった。
黄色い晩 (新字新仮名) / 小川未明(著)
はんの木畑の方も大分伸びたろう。土堤どて下の菜種畑だって、はやくウネをたかくしとかなきゃ霜でやられる——善ニョムさんは、小作の田圃たんぼや畑の一つ一つを自分の眼の前にならべた。
麦の芽 (新字新仮名) / 徳永直(著)
一度胸をのばしてうしろるやうにした今の様子で見れば、せさらぼうた脊丈せたけ、此のよわいにしてはと高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本ほそいのがある背戸せどはん樹立こだちほか
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
一本一本のはんの木から起るせみの声に、空気の全体がかすかにふるえているようである。
カズイスチカ (新字新仮名) / 森鴎外(著)