右馬允うまのじょう)” の例文
糟屋かすやの藤太、渋谷右馬允うまのじょう、平山武者所を先陣として、その勢二万五千余騎、伊賀国を経て宇治橋のきわに押し寄せた。
すると、熊谷直実の部隊も、渋谷右馬允うまのじょうの隊も、平山武者所の手の者も、いっせいに弓を持ったまま、橋板のない橋桁の上を、先を争って駈けて行った。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
並に仁和寺の比丘尼西妙はその前夜法然の終焉しゅうえんの時を夢み、その他花園の准后の侍女参河局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人右馬允うまのじょう時広が息子金剛丸、天王寺の松殿法印
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
こうして院の騒動は終りをつげたが、文覚に烏帽子を打ち落された資行判官は、これを恥じてしばし出仕せず、一方安藤武者は取り押えた賞として即座に右馬允うまのじょうに任ぜられた。
渋谷右馬允うまのじょうのそばにいた一家臣などは、具足を脱ぐのに誰よりも迅速だった。真っ裸になったかと思うと、義経の前を駈けぬけて、もう眼の前の奔流へ跳び込もうとしかけた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)