佐久間町さくまちょう)” の例文
佐久間町さくまちょうの辻で三枚駕籠をやとい宙を飛んで数寄屋橋うちのお役宅へ乗りつけると、甲斐守はついさっき本丸へおあがりになったというところ。
徳川家が瓦解がかいになって、明治四五年しごねんの頃大分だいぶ宿屋が出来ましたが、外神田松永町そとかんだまつながちょう佐久間町さくまちょうあの辺には其の頃大きな宿屋の出来ましたことでございますが
湯島のほうから延びて来る火は、もう佐久間町さくまちょうあたりの大名屋敷を焼きはじめたとみえ、横さまに吹きつける風はいぶされたように、煙と熱気に充ちていた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ひつじの刻に佐久間町さくまちょう二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
さて、その翌朝、神田佐久間町さくまちょうの裏長屋、どんづまりの二間きりのボロ長屋でとど助がまだ高鼾で寝くたばっているのを、アコ長が、ひどく勢いこんでゆり起す。
抽斎はこの詩を作ってから三年ののち弘化こうか元年に躋寿館せいじゅかんの講師になった。躋寿館は明和めいわ二年に多紀玉池たきぎょくち佐久間町さくまちょうの天文台あとに立てた医学校で、寛政かんせい三年に幕府の管轄かんかつに移されたものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
屋台も一度売ってしまって、佐久間町さくまちょうの古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したと云うことです。そんな事やら、引越やらで、随分掛かった筈ですから、さぞ困っていますでしょう。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
当時の江戸分間大絵図えどぶんけんおおえずというものをけみするに、和泉橋いずみばし新橋あたらしばしとの間の柳原通やなぎはらどおりの少し南に寄って、西から東へ、おたまいけ松枝町まつえだちょう、弁慶橋、元柳原町もとやなぎはらちょう佐久間町さくまちょう四間町しけんちょう大和町やまとちょう豊島町としまちょうという順序に
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)